カテゴリ:古代を覗き見( 17 )   

安曇族   

朝のNHKのドラマでやっていた安曇野と言う土地が有ります。

この安曇野の安曇とは安曇族の安曇です。

この安曇族と言うのは古代は北九州にいた海洋民族です。

その民族がどういった理由かはわかりませんが日本海を伝って新潟まで到着

その後糸魚川を上って長野までやってきて住み着きました。

一説には金印が取れた志賀島の住人は安曇族では無いかとも言われています。

要するにもしかしたら奴国の住人が安曇族だったかもしれません。

何か天孫族に追われた国津神と被ってちょっとロマンを感じます。

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この場所に大王山葵田と言う広大な山葵田が有ります。

この場所は八面大王というとっても強い大王が今もここの住人を守っているようです。

この八面大王が居た時代は桓武天皇の時代です。

桓武天皇は支配地域を広げ中央集権化を完璧にする為に

坂上田村麻呂を蝦夷征伐におくります。

その資金源の為に目をつけられたのがこの安曇野です。

この土地を守っていた八面大王は坂上田村麻呂に逆らうなんて考えもしなかったようですが

貧しい住人に中央は苦役を押し付けその資金を蝦夷征伐に使おうとしたようです。

あまりの苦役に住民は武器も無いのに戦います。

勝てるわけはありません。しかし八面大王は住民の為に戦います。

とても強かったようです。強過ぎて殺されてもその復活を恐れて

バラバラにされて山葵田に埋められたようです。

あまりにあまりの話です・・


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by asukai-inchou | 2011-11-13 20:08 | 古代を覗き見

大国主命の国譲り   

高天原で大暴れしたスサノオノミコトは姉の天照や他の神様たちから追放され葦原の国に降ります。

そこで八岐大蛇を退治。その後稲田姫と静かに暮らします。

その後を継いだ婿の大国主命は葦原の国をまとめ上げますがその後天照が葦原の国を「欲しい!」と言う。

様々な抵抗の後長男の事代主命は天孫族の天照に譲ることを承諾します。

ところが二男のタケミナカタは徹底交戦を宣言します。

しかし相手のタケミカヅチが強すぎて長野の諏訪まで命からがら逃げていきそこで

「今後絶対にこの地を出ません!」と宣言しその土地で生きていくことを許されます。

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                  諏訪神社前宮です。

 
 人の訪問も少ないひっそりとした前宮にタケミナカタと后の八坂刀売命が静かにまつられています。


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名水「水眼」の清流というご神水がそばを流れています。

長野の諏訪に在る諏訪神社。本宮・前宮・春宮・秋宮が有ります。

普通10月は神無月と言われます。

その由来は八百万の神が皆出雲に集まるため各他には神が居なくなってしまうから。

そこで出雲だけは神々が集まってくるので10月を神在月と言います。

ところがここ諏訪だけは10月は神在月です。

天孫族との取り決めでこの地から一切出ないと約束したのでタケミナカタは出れないのです・・

皆が出雲の自分のお父さんの所に集まっているのにタケミナカタだけは里帰りが出来ないのです。

諏訪神社の秋宮には タケミナカタの母親であるヌナカワヒメが祭られていました。

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大国主の奥さんの一人のヌナカワヒメは越の国の人です。
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by asukai-inchou | 2011-11-13 19:42 | 古代を覗き見

君主論   

君主論とは「君主は法」という考えである。

マキャベリが考えた為マキャベリズムという。

君主論が世に出るよりもずっと前にその思想を説いたのが

中国戦国時代燕の韓非子である。始皇帝はかれの考えをもとに政治を行った。

要するに君主である始皇帝の考えが全てで有ると言う完全な独裁主義。

強力な政権で有ったが一代で終わる。

始皇帝の造った秦の後に続く楚漢戦争で戦った項羽と劉邦。

二人には大きな違いが有った。

項羽は戦った相手を完全に叩きのめし降伏しても許さなかった。

人民に対しても容赦が無かった。劉邦は敗戦相手にも緩い情のある扱いをした。

結果はご存じのとおりである。

信長は自分に歯向かうものにはやはり容赦無かった。

カルタゴのハンニバルの戦い方も戦法は後世に称賛されるが

対戦相手には極めて過酷な対応をした。

彼は優秀な将軍だったが最後は国を追われ亡命国で悲劇的な末路をたどることになる。
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by asukai-inchou | 2011-06-11 08:01 | 古代を覗き見

カルタゴとローマ   

以前にも書いたように 

北アフリカ(現在のチュニジア)に有った海の民フェニキア人の造ったカルタゴは

強大な貿易国家であり経済大国であった。 

敗戦敗戦を繰り返し多大な損害賠償金を抱えながら瞬く間に不死鳥のようによみがえってくる。

その返済力は目を見張るものであったそうだ。

ローマはカルタゴに続いて勢力を伸ばしてきた国で地中海の覇権争いで

じわじわとカルタゴはローマにその勢力圏を奪われてきた。

現在カルタゴの遺跡はあまり無い。そこまでローマによって無きものとされた。

カルタゴとローマは大きな軍事的違いが有る。

カルタゴは良く言えばシビリアンコントロール(文民統制)が利いていた。

要するに軍隊が勝手に動かないように統帥権を将軍に持たせなかったことである。

方針を決め実行するときには政府の了解を取り付けなければいけない。

ローマはここが現場の将軍に全ての采配を任せたことで有る。

文民統制は軍が独自に突っ走らないように歯止めにはなるが優秀な将軍が軍を率いているときは

ブレーキになりせっかくの戦略が台無しになる。

これがハンニバルがローマにもう一歩と言うところまで迫ったにもかかわらず決め手が無く

国に戻った理由で有る。

カルタゴは更に文民統制しながら戦勝をあげなければその罰則は厳しいものであった。

ローマは逆に現場に任せながら敗戦の将にもねぎらい次のチャンスを与えたようだ。
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by asukai-inchou | 2011-06-11 07:36 | 古代を覗き見

古代の地中海地方の覇権争い   

ポエニ戦争と言うのが有ります。(紀元前264年~紀元前241年)

勢力を伸ばしてきていたローマが唯一てこずった国が北アフリカにあったカルタゴです。

カルタゴは海の民として活躍していたフェニキア人が入植して造った国で

当時地中海貿易を支配していました。

フェニキア人の航海術は優れたものでローマは海戦では苦戦を強いられました。

しかしフェニキア人の船を一隻手に入れたことによって形勢は逆転します。

結局ローマの勝利で終結しカルタゴは多大な負債を負います。

その負債を返すためにカルタゴの将軍ハミルカアルは現在のスペインに

カルタゴ・ノヴァと言う国を造り賠償金を返します。

このハミルカアルは有名な名将ハンニバルの父親です。


さてハンニバルはその父親の後を継ぎカルタゴノヴァを運営します。

カルタゴの復活を恐れたローマの対応に怒ったハンニバルは第二次ポエニ戦争を仕掛けます。

その戦法が意表をついた奇策アルプス越えです。

数十頭の象を引き連れて道さえ無い冬のアルプスを越えます。

出発時は5万居た兵士もイタリア半島についたときは半分になっていました。

そのような無謀とも思える行軍をしてきたにもかかわらずハンニバルの兵達は士気が高かった。

カンネーの戦いと言うのが有ります。ハンニバルの兵2万5千とローマ軍5万の戦いです。

ハンニバルはローマ兵を罠にかけ少ない兵で殲滅させます。

戦史に残る殲滅戦だったようです。

ハンニバルの戦法は後世においても軍事家たちが参考にしているほど用兵の天才であったようです。

しかしなぜここで一気にローマに攻め込まなかったのか。

そうすればもしかしたら歴史が変わっていたかもしれません。

結局双方に決定打のないまま16年が過ぎます。

そこで登場するのがローマの将軍スキピオです。

スキピオは直接カルタゴを攻撃します。

カルタゴの指導者たちは弱腰だからハンニバルを呼び戻すだろうという考えです。

しかしこれは一種の博打です。

スキピオの出陣によってローマの守備はガラ空きだもんで

もしハンニバルが戻らずにローマを攻撃したら大変なわけです。

結局カルタゴの指導者たちは、ハンニバルを召還させます。

カルタゴでハンニバルとスキピオが戦いハンニバルは負けます。

その後ハンニバルはカルタゴの指導者にも裏切られシリアに亡命します。

カルタゴはその後驚異的な復興を遂げますがそれを見たローマは脅威に感じ

ポエニ戦争第三回戦(前149年~前146年)でカルタゴを壊滅させます。

その後東方のマケドニア、ギリシアもローマによって征服されました。

(マケドニアはアレクサンダー大王の国です)

イタリア半島以外の国は同盟国としないで属州にし搾取しました。

その資金と奴隷の流入によって強大なローマ帝国が誕生します。

このころのアジア大陸は秦の始皇帝が中国を統一、その後、劉邦による強大な漢帝国

の誕生という時代でした。

日本はというとやっと鉄器と青銅器か入ってきたばかりでした。

まだ石器が主な道具の時代だったのです。
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by asukai-inchou | 2011-01-09 10:02 | 古代を覗き見

吾妻山公園   

満開の菜の花が咲いている吾妻山公園。

JR二宮駅から山道(いや、丘ですね)を登りきると360度パノラマの野原が有ります。

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そこには早咲きの菜の花が咲き、富士山そして相模湾が見えます。

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また山道の途中に吾妻神社と浅間神社が有ります。

吾妻神社は第12代景行天皇のときに創建されました。主神は弟橘媛命です。

景行天皇は日本武尊(ヤマトタケル)の父親です。

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第十二代といってもどのような時代か想像も付きません。

一応古墳時代かと思われていますが景行天皇もヤマトタケルも神話に登場しますから

時代考証をあれこれ考えてもせん無いことです。

では古事記のヤマトタケルと弟橘媛の物語を少し・・

ヤマトタケルは景行天皇の第三子として産まれました。

彼には双子の兄がいました。

兄は父親の寵妃を奪い父親の命令を取り違えたヤマトタケルによって殺されてしまいます。

その行為を恐れた父親はタケルを辺境の地に送ります。反ヤマト勢力討伐の為です。

それに従ったのが后の弟橘媛命です。

その武勇で西から東へとタケルは功績をあげていきます。

三浦半島から上総の国に渡るとき海が荒れ波を鎮めるために

弟橘媛は海に何畳もの畳を広げそこに降り立ち海神の怒りをおさめます。

海に身を投げた弟橘媛の櫛はこの梅沢の海岸に流れ着いたため

                           櫛を埋めて御陵を造りました。

また媛の衣(小袖)は浜辺に漂着します。

各々 埋澤、袖ヶ浦海岸と呼ばれるようになりました。

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浅間神社の本山は富士山にありこれまた女の神様を祀っています。

天孫降臨したニニギノミコトが見染めた絶世の美女コノハナノサクヤヒメです。

彼女はニニギに真実を訴える為に火中で出産します。


火を治めることができると言うところから富士山の守り神となっています。

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by asukai-inchou | 2011-01-06 00:37 | 古代を覗き見

難波の海   

今大阪難波と言うのは騒がしい繁華街です。

しかし古代の難波は海でした。波が速く神武天皇もたどり着くのが難儀だったようです。だから難波。

ところで、難波の海を望んだ話が有ります。

大阪の四天王寺(聖徳太子が造った寺)はすぐ裏(西門)が難波の海でした。

四天王寺から浄土を求め海のかなたに向かって行く思想が有りそれを日想観と言います。

夕日に向かって難波の海から浄土を求めていくようです。

それと同じように浄土を海のかなたに求めて小舟で海に繰りだす思想があります。井上靖さんが小説に書いています。

補陀落渡海紀 有る年齢になると浄土に向かって小舟で繰りだしていく僧侶の心の葛藤を描いた小説です。


人間の究極の姿を描き出していると思った小説です。



古代とはちょっと外れて「古代。閑話休題」でした。
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by asukai-inchou | 2010-06-27 22:24 | 古代を覗き見

卑弥呼はどこに?   

魏志倭人伝には卑弥呼の記載は有る。当時の中国は魏呉蜀の三国がご存じのとおり群雄割拠。

三国より東西南北は蜀の諸葛孔明が征服した時の記載通り野蛮な国と「されていた」。諸葛亮孔明が劉備亡き後、南東に下って征伐する話はなんて野蛮で無知な国と思わせる記載部分が有る。
((魏書東夷伝・倭人の条)東夷とは東の野蛮な国と言う意味、まあ失礼な話ですが・・)

まあ、三国は微妙なバランスの上に成り立っていた(秦の始皇帝や漢の劉邦(漢の高祖)のように絶大な権力を持っている人間が居たらあり得ない分割劇であった・・と述べている人もいる)

魏は倭の国の卑弥呼と交流を持ち 呉は邪馬台国より南にある邪馬台に決して屈しなかった狗奴国と通じていた。

呉と言う国は揚子江周辺に位置し日本の南の国とは通じやすかった。いわゆる三国志赤壁の戦いのときの孫権は狗奴国と通じていた。


(余談だが秦の始皇帝が中国を統一した時のこと・・

始皇帝は手に入れるべきものを皆自分の物にした。。手仕入れられないものは・・永遠の命だけで有った・・

そこで永遠の命を手に入れるべくして絶大な信頼を置いた徐福と言う人物を派遣して永遠の命を手に入れるべくして旅立たせた。徐福は手に入れることができると信じていたのかあるいは食わせの物だったか知る余地はないが・・今の日本の対馬に到着した。)


この狗奴国は南九州だったか?それとも現和歌山付近か?現和歌山にも狗奴国の名残はある。

南九州なら狗奴国は即ち隼人・熊襲である。

和歌山が狗奴国ならば邪馬台国は即ち畿内にあった。

邪馬台国とヤマト朝廷の成立時期は殆どかぶる。

 即ち神武東征橿原即位122年 卑弥呼127年~138年

三国のバランスが崩れ蜀が魏に征服され魏が晋にとって代わられその後晋も衰退し中国が戦乱の時代に入っていくと倭国も後ろ盾を失っていく。

その後突然ヤマト朝廷が出現する。
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by asukai-inchou | 2010-06-27 21:22 | 古代を覗き見

邪馬台国   

邪馬台国の謎

 魏志倭人伝(いわゆる三国志の中の魏書東夷伝・倭人の条)の記載通り辿っていくと邪馬台国は九州から南の海の中にあったことになる。

 邪馬台国という名の記載は中国の歴史書としての資料価値の高い三国志には記載が有るのに日本の二代歴史書と言われる記紀はじめとした日本国の古代文献には邪馬台国の名も卑弥呼と言う名も記載が無い。

なぜだ?ヤマト朝廷は現天皇家の始祖とされている。仮に邪馬台国その卑弥呼が正当なヤマト朝廷の前身で有れば記紀に記載されていてもおかしくはない。記紀は天武天皇の時期に編集を開始され天武亡き後の持統朝の時期に完成された。この時中央集権化の中心で絶大な権力を握っていたのは藤原不比等である。


 では卑弥呼は滅ぼされたのか?滅ぼしたのはヤマト朝廷か?神話では神武天皇が東征して神武以前のヤマトに神武に先だって東征し君臨していたニギハヤヒ(物部の始祖)とナガスネヒコを滅ぼし従えたと語る。

 と言うことは卑弥呼は物部か?

 卑弥呼が物部と重なるならば邪馬台国は物部王国と重なり邪馬台国は畿内にあったのか?

 しかし物部氏の系譜を示した「旧事本紀」に卑弥呼の名はない。しかし御神体が三輪山である大物主命(大国主命と同一か?)の奥さんとなった倭トトヒモモソ姫が卑弥呼ではないかとの説もある。

 奈良のマキムク遺跡はほぼヤマト朝廷であろうと言われている。そのそばにある箸墓古墳はこのヤマトトトヒモモソ姫のものであろうと言われている。

 神武天皇は九州に天孫降臨した天孫族であった。その神武天皇は瀬戸内海をとおり難波の海(現大阪当時は海)に降り立ち生駒山を越えてヤマトに入る。神武天皇(本当は崇神天皇がヤマト朝廷を統一した人?崇神天皇の神話部分を請け負ったのが神武?)は神話の世界の人だとしても奈良にヤマト朝廷を開いたのは事実だろうと言われている。

 続く・・
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by asukai-inchou | 2010-06-27 17:06 | 古代を覗き見

奈良   

神武天皇は九州から東征橿原神宮で政務を行いました。.と言われています。

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大物主命を祭った三輪神社にある
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三輪神社のご神体は三輪山です。
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by asukai-inchou | 2010-06-11 18:29 | 古代を覗き見